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まぼろし
a0035483_19495964.jpgSOUS LE SABLE(2001年フランス)
2004/11/02@早稲田松竹


長年連れ添った人がある日突然いなくなる。
その現実を人はどう受け入れるのか?

↓以下ネタバレあります↓

やられた。オゾン。もう、映画冒頭からきちゃってる。ヴァカンスにでかけるマリーとジャン。セリフはほとんどなく、なのにまなざしや表情や、間の取り方、その全てに「25年一緒に生きてる」空気感が出ていて。会話は少ない。でも間がすごい。ちょっとチュッてするタイミングとか二人でシーツをたたむ様子とか、その無言の信頼関係が絶妙すぎます。

二人は次の日、海に出かける。マリーは肌焼きながら読書。ジャンは泳ぎに海に入る。そしてそのままジャンは戻ってこない。

事故なのか?失踪したのか?それすらわからず、ただ昨日まで一緒に生きていた人がある日突然いなくなる。そのとき人はどうするのか。マリーを演じたシャーロット・ランプリングが圧巻で、夫がいなくなってからの、あの行動のひとつひとつがあまりにも自然すぎて、全然映画っぽくなかった(ほめ言葉です)。表情、虚ろな瞳。空虚なのに、幸せな目。

わたしには25年も付き添った夫なんて(まだ)いないし、その人を失うことがどういうことなのか、それも、例えば別れ話とか病気で衰弱していったとかいう前触れも説明もなくある日突然姿だけ消えてしまうなんて想像することしかできない。それでも現実的に見ればそんな想像も全然「足りない」だろうと思う。

冒頭のシーンを見れば明らかだけど、きっと二人は空気というか、それぞれの体の一部になっていたのだろうということがよく伝わってくる。少なくともマリーにとってのジャンは彼女の生活の一部ではなく、彼女自身の一部だったはずだ。昨日まであった片足がある日突然なくなったとしたら、すぐにその現実を受け入れられるだろうか?どうすればその現実に対応できるんだろうか?そう思ったとき、マリーの行動はすごく当たり前なものに思えてくる。

ジャンは死んでない。
だっているもの、ここに。

マリーはジャンの死を否定する。現実に目を向ける気になったのは、自分にとってもっと最悪の可能性を見つけてしまったとき。ジャンは死んだのではなく、自分に飽きて自分を捨てたのではないだろうか?それならば死んでた方がまし。と、ジャンが自分に飽きていた可能性を否定する。そして死体がジャンのものであることがわかると、今度は「時計が違う」と言い張りジャンの死体であることを否定する。否定することでしか自分を保つことができないことの痛々しさ、わかりますか?

オゾンは女性に対する視点が意地悪などと言われているようだがわたしはまったくそうは思わない。「この人すっげえ人間見てるよ」それが正直な感想。

でも激しく否定するという行為は、現実を認めていることにほかならない。マリーは始めから気づいている。ジャンを永遠に喪失したことを。「現実を認めた自分」を認識したとき、マリーは初めて涙を落とすのです。そしてあのラストシーン。オゾン最高。
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by manamizw | 2004-11-04 19:57 | cinefil